エッセイ

歌舞伎と西洋美術



 住まいに近い「都ホテル」のラウンジ は、私のお気に入りです。ゆったりとし たソファーから眺める、クロード・ロラ ンの風景画を思わせる正面の森。このた び出版される『名画の言い分』の原稿に 苦しんでいるとき、よく足を向けました。
 例によってラウンジで脳をリフレッシ ュして戻ったとき、電話のベルが鳴りま した。受話器を取ると、「今、團菊(だんぎく)の 『勧進帳』が、かかっているの。天覧歌 舞伎だし、ご一緒しない」と、粋なお 誘い。声の主は、80代の素敵なマダムで す。観劇は、同伴する人によって満足度 が変ってしまいます。その点彼女は、最 高ランクの友人です。
 約束の日、若葉雨をぬって歌舞伎座ヘ。 私は、先のパリ・オペラ座公演(成田屋 の『勧進帳』)の様子をテレビで観てい たこともあり、心躍らせながら席に着き ました。
 何度も観ている『勧進帳』ですが、私 にとって今回のキャスティングは初めて です。完全復帰した成田屋の弁慶と、富 樫の菊五郎の二枚目ぷりに心の底から酔 いしれました。役者が変わると、同じ演 目でもこんなに印象が違うのか・・・・。欧 米で観ていたオペラやバレエでは数え切 れないほど体験したことを、歌舞伎でも 実感させられた次第です。
 菊五郎は、好きな役者の一人です。数 年前に、彼の『雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)』の直 次郎を観て、「壮年日本男子の艶っぽさ とはこれなんだぁ・・・・」と感嘆し、フア ンになりました。
 さて、團菊の息子たち、海老蔵と菊之 助による『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』も嬉しい 出し物でした。世阿弥が言うところの、 「時分の花」真っ盛りの二人はこの上な く美しく、まさに動く浮世絵のようで、 客席からは溜息がもれていました。
 この狂言が初演されたときの与三郎役、 八代目團十郎の姿は錦絵でしか知り得ま せんが、今の海老蔵の役者ぶりを見てい ると、江戸の人々の熱狂ぶりも思いやら れます。それだけに今回は、濡れ場と責 め場が上演されなかったことが少々残念 でした。
 彼らのような若手役者の活躍もさるこ とながら、驚くほどキャリアのある役者 が輝いているのも歌舞伎の素晴らしさで す。
 20代の頃、雀右衛門の踊りを料亭で観 るという、今思えばたいへん贅沢な機会 がありました。しかし、当時はそのよさ を理解できなかった私ですが、現在では 彼が舞台に登場するだけで眼が離せなく なっています。80歳をとうに超えた雀右 衛門の一挙一動が、舞台と客席の空気を 支配してしまう、まさに歌舞伎ならでは の至芸と申せましょう。

木村泰司

 西洋美術史の世界にたとえるならば、 雀右衛門はさしずめ至高の芸術家レオナ ルド・ダ・ヴィンチといったところでし ょうか。そして、その美しさに感嘆する ばかりの玉三郎はラファエロ、燻し銀の 魅力がある菊五郎がレンプラントなら、 お江戸の華の團十郎はちょっと野性的な リュベンスかな・・・などと、ついつい連 想してしまいます。
 そうなると演目にも目が向きます。さ しずめ『勧進帳』などは歴史画であり、 世話物は風俗画となるでしょう。また、 江戸歌舞伎と上方歌舞伎の違いは、フラ ンス絵画とオランダ絵画が見るからに違 うことと似ています。それは、社会構造 やそこに住む人々の気質によるもので、 それぞれの面白さ、素晴らしさがあるの です。
 日本の誇る伝統芸術「歌舞伎」は、江 戸時代、ひろく解釈すれぱ室町時代以来 の諸芸能から成立、発展してきました。 そのため歌舞伎には、長い間に育まれた 型や約束ごとがあり、そのうえ近年の勘 三郎のさまざまなチャレンジからもわか るように、現代のエッセンスまでもが織 り込まれています。
 このようなことは、西洋美術史でも同 じです。西洋美術は、古代ギリシア文化 を根底にもつ、大河のごときヨーロッパ 伝統文化の上に成り立っています。美術 の世界でも芝居の演目のように、レパー トリー(テーマ)や型や決まりごとがあ り、時代や社会の背景を織り込んで現代 に至っています。歴史と伝統がなくては、 芸術は成立しないのです。

 さて、歌舞伎に憤れていない友人に、 いつもアドヴァイスすることがあります。 それは、イヤホンガイドを借りること。 特に初めて観る演目の場合、知識や情報 が不足しがちです。そんなとき、このイ ヤホンガイドを用いれぱ、舞台が何倍も 楽しめます。なによりも自然に、歌舞伎 や日本文化の勉強ができるのが嬉しいこ とです。
 現代人である私たちが、江戸時代の風 俗や舞台での決まりごとがわからないの は当然のこと。それは、聖書やギリシ ア・ローマ神話に精通していない日本人 が、ただ感性で観るだけでは西洋美術が 理解できないことと同じです。私の西洋 美術史についての解説も、歌舞伎のイヤ ホンガイドと同じと思っていただければ 幸いです。

(青春と読書ー集英社、2007年8月号より)

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